昭和三十九年十一月十日 朝の御理解
信心の心得 信心はして神徳を得、人徳を受けていく
私共が真実幸せになっていくという事は、どうしても天地の親神様の御信用を頂かねば 幸せにはなってゆかれない。幸せを許されないネ。
幸せになりたいと思うて、お金を貯めた、地位も出来た。例えば、まああらゆる幸せの 条件というものはいくらでもありましょう。その条件が揃うても、真実幸せというものは神様がお許しにならなければ幸せにはなれない。それは、幸せとはしみじみ自分の心に感ずるものだからですよ。神様がお許し下さらなければでけんのです。
ですから神様にお許しを頂く、許されるという事はどういう事かというと、神徳を得て 行く事だと人徳を受けて行く事だと、私はこう思うのです。
分かり易くいうなら、天地自然のいわば信用というか、いつも天地がその氏子その人の 為にバックになって下さるという事。後ろ盾は、いつも天地の親神様なのだという事。そういうおかげを受けた人が幸せな人だとこう思う。
例えば、椛目に御参りさせて頂こうと、一足でも椛目に御参りさせて頂こうと心を向け て一足でも椛目のほうに足を向けたらですね。一足でも神様は無駄にはさせんとおしゃるですから無駄にはなりません。
それはだから今日私が言う、そういう意味の、だからおかげというもの真実幸せ神様の 御信用を頂く事の為のおかげではない。一足でも無駄にはさせんとおしゃるそれは、今日私が言うお徳を受けるという事の意味ではない。
何かの形になって私共の願いというものが一足型(がた)いわばお参りする型(がた) おかげは受けるでしょうけれどもそれによって神様の御信用を受けるという事ではない。そこんところを一つ極端な私は例をもってお話しをさせてもらうと、例えばお金を使う です。一万円なら一万円という札を持っておる。五千円払わなければならない。そういう時にです、その一万円札をきちっと二つに折ってから二つに破って、ハイ五千円と一万円を半分に割ったんだから、五千円がたになりそうなもんだけれど五千円の役には立たんでしょう。貰うた者だってやった者だって、後に残っておる五千円も使えなければ向こうに渡した五千円だって五千円がたの値打ちとしては使えないでしょう。
だから極端な例をもってから、だからそういう信心では私は馬鹿らしい事だと。折角、 神様がおかげを下さるのであるから、そのおかげが本当にお役に立たなければ。それはどういう意味の事かというと、真実幸せになっていく事の為のお役に立ってゆかなければ。そこん所をですね、教祖の神様は「実意丁寧神信心」とおしゃっておられます。実意丁 寧神信心をさせて頂くという所、それが生きてくるとネ。五千円を使うと思や、まず五千円札二枚にそれをこまめなければいけない。三千円使いたいと思うなら、千円札十枚に例えば両替しておいて、それから三枚を使わせて頂く事によってその三千円も生きて来りゃ、残っておる七千円も生きてくるわけです。
だから、信心してもなあーにもならない信心をしちゃならんという事です。神様はおか げのやり損。私共もおかげは受けたようにあるけども、おかげを受けたがたの値打ちはないと。そういうようなおかげではダメだと。
そこんところを皆さん、一足でも例えば神様の方に足を向ければ、一足でも無駄にはさせんとおしゃるおかげの事ではないのです。今日、私の言っておる事は真実お互いが信心によらなければ幸せは頂けませんけど、その信心といっても様々な信心があるという事です。
私共が信心、信心という事は真心にならせてもらい、神心にならせてもらい、いよいよ 神様を信じさしてもらう事の信心。信じる心、真心、神心、そういうようなものが自分の心に頂けてまいります。いつも安心の気持ちを持って幸せな生活に入って行くという事。その神様がバックであるという事。
いつも天地が私共と共にお働き下さるというような、そういう意味でのおかげ。だから 今日、信心してお徳を受けるとおしゃるのは、お徳を受けるという意味合いにおいてのおかげの事を私は頂きますネ。
神徳を受けるという事は、実意丁寧〔に〕生きておらなければならない。実意丁寧神信 心させてもらわにゃいけん。
私共は一万円札を使うのにです、五千円がた払う、半分切ってから使うような事してか ら、いつも神様事に。そういうような事をしたような在り方ではなかろうか。千円使うなら一万円札を十分の一にグリッと折って、ハイ千円というて渡しても千円使うた気持ち、千円上げたつもりでおる事はなかろうか。それではこちらも役には立たなければ《あちら》も役には立たん。
昨日、朝の御祈念の後に福岡の高橋さんが、今、毎朝奥さんが参ってくる。今日も参っ て見えた。昨日は御主人の定利さんが参っておられました。丁度、月次祭だからもう月次祭の前日にはきちっとお供え物をもってからもう必ずそういうふうにされる。そして、お届けをされます事が「先生、今日は又夕方から家内と一緒に御礼参拝させて頂きます」と「万事にどうぞお繰り合せ頂きますように」という事であった。
「何事ですか」といったら、「いやもう先生、今日は私共の結婚丸五年に当たります」 と、記念日、結婚記念日であると、だから夫婦揃って御礼参拝したいとこういう事の為にどうぞお繰り合せ頂きますようにと。
私は参られるけど家内が参られないとなったらでけんと、こういう事である。だから、 そのお届けに昨日は見えたと言うわけである。このお方はもう本当に、皆さん御承知の通り行き届いた方ですよね。
昨日、丁度、夜の御祈念を仕える前に親子四人連れで参って見えられました。それが、 北野辺か、この辺まで位ならやけど福岡ですからね。そして何かこう遊び半分の仕事をしておられるのじゃなくて、それこそ忙しい御用をしておられ御商売をなさっておられるんですからね。それでいて又夫婦で御礼に出て見えられる、実に行き届いた信心だなあと思うネ。神経が行き渡っておる、その末梢神経に至るまで。
例えば、御大祭なら御大祭を仕えるも真心一杯で奉仕される。中心は、私、さあ私があ れもしとかにゃいかんば、これも、例えば、いかにも私がバタバタしたところでですよ。そういう人間ですから出来るもんじゃないけど、こちらが、例えば実意丁寧神信心を、例えば中心の私がしておれば、私が言わんでも頼まんでも、いわば末梢神経に至るまでぎりぎりその働きがあっておるという事。
それなら高橋さんとこの三福寿司という本店の方だって支店の方だってです、さあ自分 が駆け回ってから、あそこにも手落ちがないように、ここにもこうというた所で、それは高橋定利さん一人の働きだという事です。
けれども神様が中心であり、こちらが実意丁寧神信心してから、神様の御信用を頂く事 になってくるとですね。私は二階に上がっておって、今日、御大祭なら御大祭というポイントを、そのボタンを一つ押しといておけば万事万端の上に神様が末梢神経に至るまで、もうそれこそ痒い所に手が届くようにお繰り合せ下さる。こっちの手は動きよるけど、こっちん手は動きよらんという事はないという事。
私は、一事が万事おかげを蒙らせて頂く為に、私共の中心である所の信心が、いわゆる 実意丁寧神信心にならなければならないという事になるでしょうが。だから、行き届くという事に焦点を置いといたらいいという事なんですよ。
行き届いた信心をさせてもらいよれば、おかげの方が、神様の方が私共の知恵力で出来 ない所まで行き届いて下さるという事なんです。だから、段々そういう信心が出来るようにならなければならない。
実意丁寧神信心、今日、これを今私が申します、どこまでもいわば形の上の事でありま す。信心というのは、これから先が、いわば実意丁寧神信心なんです。
これは人間のいわば一つの巡回を行くもの、これからがいわば神徳が発揮される所。だ から、これが形の上の事でも、例えば実意丁寧神信心ををしなければならない、そこで精一杯。
高橋さんが、昨日、実意丁寧な神信心をなさったんだけども、これで済んだとは思いま せんと、そこから本当の信心が生れてくるんです。
朝は朝で、月次祭は月次祭の御供えを持っておかげ頂いた。しかも、福岡の十里の道を お参りしてみえた。今晩は家内と二人で、結婚記念日に当たりますから御礼参拝のおかげを頂きたいから、万事万端にお繰り合せ頂きますようにというお願いをしとく、されてある。
そして、それが出けた。勿論、出来ただけ二人が参るだけじゃない。それには、それ相 当した所の御礼心というものを神様の前に、又、奉らせて頂いて、いわば行き届いた御礼参拝が出来た。
ところがです、ここんとこです。これで済んだとは思いませんという信心になる。それ からなされるのです。
やれやれこれで行き届いた、やれやれ人間の出来るだけの事をしたという事であったら 、もうそれから先はなし。これから先の信心が、わたし、お徳を受けてゆける信心じゃなかろうかと思う。
教祖は、そこん所を人間凡夫の事で相分からず、どこにお粗末御無礼があるやら分かり ませずというような在り方で進められたんですよ。教祖の神様は、そこが教祖の神様の信心の行き届いておられるのである。
だから、その信心を頂く私共も、又そういう信心に神習わして頂かなければいけんので す。
これだけの事が出来たから、これで済んだとは思いません。どこに人間凡夫の事で相分 かりませず、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりません。そこの所は平にお許し下さいませという信心。そこに行き届いた信心というものがあるように思うのです。
もう毎日御参りをしよる。しかも、朝参りさせてもらいよる、ま、いうなら確かに出け りゃせんかも知れません。普通特別な修行でもしよる時なら、又別かも、けど普通最高の信心といや、最高の信心でしょうというても、それから信心しとるから最高のおかげをうけられるかというとそうじゃない。
それから先を大事にする人が最高のおかげを受けられるのである。これで済んだとは思 いませんという内容が、いつも自分の心の中になからなければいけないという事。どこにお粗末ご無礼があるやら相分かりませんという所に、私は、いよいよ謙虚な実意丁寧な神様のお働きをお働きとして、お粗末にしないで済むおかげを頂かれるんだとこう思う。
お二人が、子供二人連れてみえて、親子四人がここでそういうお届けをなさっておられ ましたら、私が、ここで神様に御心眼を頂きます事が。
この皆さん、ウニ、ウニって食べ物があるでっしょ。あれは丁度クリのようにしている んです形が。大きなイガグリのいわゆる原形ですネ。そのままのものを、ここで御心眼に頂くんです。
それで、私は二人に申しました。いうなら、形の上においては行き届いた信心が出来ま した。だから、これから先は、一つ心の上に行き届いた信心が出来なければいけません。だから形の上に行き届くじゃなく、心の上にこれから頂かにゃいかん。
例えていうなら、親子の件だって、夫婦の仲だって、主従関係の中にだってさまざまな 問題がある。どんなに二人が仲よう夫婦生活が出来ておってもです、そういつまでもいい日ばっかりはないという事。偶には、ほんとに主人に対して一つはじきまわそうごつあるって、いうならばそのウニじゃないけど、ジガジガ、イガイガする事もあるという事。だから、そのジガジガ、イガイガをそのままにしておったら、夫婦であるならば、その為に夫婦別れでもしなければならんような結果が生れるという事。
肉親であり、親であり子でありながら血を血で洗うような、争いにまで進展しかねない という事。この問題、イガイガする問題が天地の親神様は【 】は私共、本当のおかげ下さる事の為、そういうジガジガの問題を私共の前に出して下さる事があるのです。そこで、私共、実意丁寧、行き届いた神信心しておらなければ、そういう所まで行き届 かん。
そして、そのジガジガ、イガイガはです、生神金光大神様のお取次を頂いて、それを中 身を割ってみらせて頂いたら、神様の思いを分からせて頂いたら、中にはいよいよ天下一品の珍味とも思われるようなものが入っておったという事。外は、いかにもジガジガ、イガイガだけれども、中には珍味といわれる味わいのあるものが中にはあったという事。それを頂いて、私は、初めて行き届いた信心じゃなかろうかと思うんですよ。
高橋さんが、昨日、一日の在り方はもう本当に人が真似の出来ない位な実意丁寧を込められた所の行き方であったという事。さあー高橋さん、あなた方夫婦がこれからは、この行き届いた信心の内容としてです。問題は、形だけじゃなんにもならん。なんにもならんじゃなくてです、一番初めに申しますように、一足でも無駄にはさせんとおしゃるのですから、わざわざ福岡から朝も参りゃ、晩も、しかも夫婦で参ってくるという、神様に心を向けて来ておるのであるから、それによって助かりおかげは受けるでしょう。
けど、それだけで済ませるとするならばです、それは、一万円札を半分に切って使った 事にしかならないという事です。行き届くというのは、例えばです、千円なら千円にこまめる。こまめる所の手数をさせてもらうという事が、行き届くという事である。しかも、その内容に触れてゆかなければならない。
私共が、例えば、人間関係の上様々な複雑な問題がある。親子の者でも夫婦の者でもある。もう、今日は家内の顔も見ろごとなかごともある。呼ばれたっちゃ返事もしようごとないという事もあるけど、それをそのままにしておくから、破綻が生じてくる。
そこん所を実意丁寧神信心をもって、そこん所を私共分からせて頂こうと努める時、こ ういう、こういうものがその中にあったというおかげ。これはネ、信心させて頂く者の上には絶対そればっかりなのですから、無駄ちいやこれ先もないのですから、信心させて頂く者はですよ。
ですから、無駄と思う事の中に、そういう珍味的な味わいのものを分からせて頂いて、 それを頂いて初めて、実意丁寧神信心をさせて頂いておる値打ちというものがあるのじゃないか。
そういう在り方にならせて頂いておる時に神様は、あの氏子には、どういうイガイガを 持っていってもそれをおかげにしてくれる。イガイガのままおかげというのじゃないですよ。
何事でも、有難い有難いとさえ受けていけばというから、ジガジガしながらでもジガジガしながら有難い有難いというておるだけじゃいかんという事。本当にあり難いという事を突き止めてから、有難いという事にならなきゃいけんという事。そこん所は、実意丁寧神信心しておらないと、そこん所までいききらんです。
そして神様の御神意が、ここにあったんだという事を分からせてもらう時にです。あの 氏子には何を与えても大丈夫というおかげ。あの氏子は、いよいよ行き届いた氏子であるという、神様の御信用がついてくるのじゃないだろうか。
その神様の御信用を、私共は御神徳というのではないだろうかとこう思うのです。その 御神徳が、身に徳を受ければ心配はないとおしゃる。どのような場合でも心配はないとおしゃる。どのような場合でも心配はせんでもいいとおしゃる。どのような場合でも驚かんですむそういう有難い心に、家も、お金も、財産も、様々な人間関係も整うて来るのである。そこに、私共の幸せというものが約束されるのです。
私は、実意丁寧神信心という事をですね。高橋さんが、昨日、一日のそういう信心をも って実意丁寧神信心、行き届く信心だとばかり思っておった。ところが、それはそれから先がいけないのである。
人間凡夫の事相分かりませず、どこに御粗末、御無礼があるやら分かりませんという信 心が、それから先なされてゆく時にどういう問題でもです。今、私が申しますような在り方でそれを頂いてゆく事が出来るんだと、こういう事です。
でないと、たとえば、それがかなり行き届いた信心をさせて頂いたとする信心で、それ までであるとするとですたい。これほど信心をするのに、どうしてこういう事が起こって来るだろうかという事になるんですよ。
これだけ毎日御参りしよるとに、今日は椛目に二辺も参ったのにどうしてこういう事に なったんじゃろうかという事になる。だから、どうしてこういう事になったんじゃろうかという事になれば、もう信心は、それまでだと教祖はおしゃっておられる。
これは、まだ私の信心が足りんからだという所からです、人間凡夫で相分かりませず、 どこに御粗末、御無礼があるやら分からんという実意丁寧謙虚な私が、信心がそこからなされていく。
そこに神様の御信用が、いよいよ増して来るようなおかげが受けられるじゃないかと、 お道の信心の命であると、命であると言われている所の実意丁寧神信心。だから、【ニカイッカ】な事ではいけないという事。
このごろ総代会の時、堤さんでしたか、今日は総代会があるけん、朝の御祈念は御無礼 しようと、どうせ総代会に出らんならんけん。これなんか、いうなら【ニカイッカ】ですネ。
朝の御祈念は朝の御祈念、総代会は総代会、そういう所に、そういう所に私は、そうい う信心をさせて頂いて、初めて信心の味わいというものが分からせて頂く事があるのじゃないかと思うです。
いやそうさせて頂かなければおれないという内容が、だから、出来て来なければならな いという事になるんじゃないでしょうか。もう面倒くさかと言うたら、もう実意丁寧というものはもう根底から無くなってるんです。面倒くさいと。
ですから信心のない人達から見るとです、ほんに(?25.10)あたりじゃ、さくらのごたるとがまた参りよってという事になる訳なんですけども。そこに、いわばウニの中にもあるような味わいというものがわからせて頂く信心こそ、私は良い信心を楽しゅうさせて頂けるという事になって来るのじゃないかと。
(?25.30)実意丁寧神信心が、形の上にも、いわば内容の上にも、だんだん頂けるようになり、身についてくるようにならしてもろうて、神徳を受けていき、そして人徳を受けていけれるところのおかげを蒙りたいものだなと、まあ思うのでございます。
(ここで終わり)